すずめの戸締りの感想という形の何か
どうも、azarasingです。UEC19でMMA所属、最近はだいぶ調布祭の関連の活動も収束してきました。今年も講堂のPA卓で四苦八苦してましたが、それ以上の仕事も特に目立ってなくという感じでした。
そんな感じで調布祭期間前にも関わらず、すずめの戸締りの封切をすることができました。そんな話をしようと思います。
ちなみに、僕は『君の名は。』は劇場まで足を運びましたが、『天気の子』に関しては足を運びませんでした。なぜなら、必要性を感じなかったからです。そんな人間が書く感想であることを留意して以下読んでいただければと思います。ちなみに別にみて欲しいとかないので、ネタバレをじゃんじゃんしていきます。僕の言ってることにケチャップを塗りたい人は映画を見てみてください。
これはmaccha Advent Calenderの23日目の記事です。
一言で言うと
今回のすずめの戸締り、一言で言えば「新海誠の反省文」であると感じました。
僕は『君の名は。』を見てそのあまりの災害に対する扱いに少し憤りを覚えてしまい、それでもと見た()『天気の子』の感想は、「愛はもう何もするな」でした。「新海誠にとって災害とは道具であり、その犠牲者もまた道具である。」そんなメッセージを得ても何ら文句は言えないものであったことは言うまでもありません。
それは、確かにセカイ系というジャンルの致し方ない点であることは言うまでもないことを理解していないわけではないですが災害というテーマをその中に取り入れた以上、何らかの形での罪滅ぼしのような形があるべきではないかというのが、僕の映画を見る前までの新海誠に対する考え方でした。
戸締りの意味
戸締りは安直にClosingと訳せる。しかし、英語タイトルはただSuzumeのみである。英語にあえて訳すと安直すぎるからだろう。冒頭の演出において主人公宅のドア、廃墟の扉等、戸締りに関する演出がきちんと印象付けられている。ここから言えるのは、戸締りという言葉に込めた想いをきちんと観客は受け取らなければいけないということである。
ここで戸締りということの意味を3つほど考えてみよう。
- 映画の流れとしての戸締り(イベントとしての提示)
- 新海誠の三部作の集大成としての戸締り
- あの世との送別の意味での戸締り
映画の内容としては、各地の災害の原因として描かれる扉を日本各地を旅するしながら閉じていくというストーリーであるため、「戸締り」とはこのストーリーの流れを示しているということ。これは映画を一度でも見れば誰もが受け取るものである。
よりメタ的な考えをすれば、災害三部作として作られた本作品を一連の流れの集大成として考えるということである。これは少しうがった見方をする人は大抵思うことである。
この二つの他に、あの世との壁としての境界としての扉がある。
境界と文化
さて、文化とは常に「境界」から生じるものであると考える論がある。神社に鳥居があるのは神様の場所と人の場所というのを分けるためのものである。もっと原始的に言えば、人は他者を考えるときにはその人との違い,境界について常に思考する習性があるともいえる。この考えによれば死とは、境界が生み出す問題ともいえる。生物学的に考えれば生から死へは連続的に変化するものだが、人はそこに明確な境界を置いている。どんなに医学が発達しても、この境界を人類が排除することは無いだろう。
海は最も原始的な境界といえる。人類が誕生するはるか以前から陸地との境界として存在するそれは、「境界」として人類が文化を形成するのは必然である。昔の人々は海にあの世を見立て、海岸をあの世とこの世の境界として捉えた。例えば羽衣伝説などで天女が登場する場所は水辺であることや牛鬼が海岸から出現する恐ろしいものとして伝承されたりすることがある。これは海を異界として捉え、海との境界,潮(うしお)を畏怖した結果である(潮だから牛鬼なのだ)。
本作でも潮が登場する。宗太が閉じ込められた常世は海岸の浜辺だった。常世は主に草原として描かれるため、この表現に違和感を持った人もいるだろう。津波のメタファーとしてシンプルに捉えることもできるが、生と死の狭間に捉えられているための表現として捉えることができるだろう。水とは生と死を隔てる壁なのだ。だから本作に登場する常世は死者の赴く場所と言えど死者は一度も登場しないのである。
堤防は現代の潮といっていい。物語後半は東北の沿岸沿いを走るので否応なしに大きな堤防が登場する。海岸に対する人類の畏怖はより現実の構造物として顕現した。これを容赦なく見せてくる。僕はこれに死者に対するリスペクトを見た。
今日は何の日?
このアドベントカレンダーの投稿予定日は12/23である。この日は昭仁上皇のご生誕日であり、平成の時代は天皇誕生日であった。
なぜ、ここでこの話が出てくるのかといえば、閉じ師とは何か、モチーフにしているものは何かを考えた結果、これは宮中祭祀が基になっているのではないかという結論が出たからだ。
東京の後ろ戸の場所は明らかに旧江戸城、現在の皇居にあった。これは今までの映画のルールの例外といっていい。忘れられた場所、人の営みが消えた場所にあるはずの後ろ戸が東京のど真ん中にあるのは不自然だ。
ルールに沿わないことには意味があるべきだ。うん。
えっと… まぁ書いてもいいか…
これはやはり作中の世界では天皇は左大臣の要石になったのだろうと考えた。主人公宗太は、要石の化身のダイジンという猫が好き勝手する様子に「気まぐれは神の本質だからな」と言った。神に接するにしてはタメ口で乱暴な接し方のようにも見える。しかし、同じ要石であるはずのサダイジンに接する宗太の祖父は要石に対して非常に丁寧な言葉で接している。これは仮説だが、姓名の宗像から考察するに、代々神職の家系であったことは想像に難くない。宗像祖父は、要石を神様のように扱うよう指導したのではないだろうか。なぜそのような指導をしたのかといえば冒頭の通りである。
だから宮中祭祀もなくなり、さびれたのではないか。旧江戸城地下にたとえ謎の空間があったとしてもそこに至るまでの警備が全くないのはやはりこういった理由があるのだろうか。
あんまりよくない所というか感情的な感想
まあ、ここまでほめても仕方ないので、最後ダメだったと思うところを語っていこうと思う。
これは最近の映画全般に言えることだが、分かりやすすぎて逆にテーマが浅くなるということはよくあることである。一番わかりやすい最後のカットを僕は問題にしたい。
最後すずめがお帰りというシーンで終わっていたら、一連のテーマにとても合う形で終われたと思う。震災が家族を別ち、ただいまは言えてもお帰りは言えなかった。そんなテーマをもっと推したいのなら最後はすずめが誰にお帰りを言ったかをあえて特定させない方がテーマとしてすっきりするはずであるが、それでは分かりにくいと判断したのか最後宗太が映るシーンが入る。これでは恋愛モノとして見れてしまう。あまり良い効果とは思えないと感じた。
こういった具合に、なんというか無駄というかより多くの人にテーマを分かってほしいという思想なのか知らないが、その性でテーマがずれているように感じる。多くの人はこの映画に満足するのかもしれないが、僕みたいに注目する映画があると必ず封切をしようと考えるような人間にとってみれば物足りない要素でもある。
セカイ系特有の犠牲のゼロ化に腹が立っていないわけじゃない。特に要石で犠牲になった人というものをもっと深く追求出来たのではないかということは付け加えておきたい。まぁこのテーマを加えると映画を見終わった後の後味が悪くなるかもしれないが、後味の悪さも楽しめる人種からすると何かすっきり来ないものがある。まぁ、『君の名は。』みたいに災害の犠牲が一切なかったことになるみたいな展開にならなくて良かったと思う。(僕は常世に時間概念がないという発言を聞いてちょっとこの展開を危惧した。)
多くの人はこのことにはあまり引っかからず、最後ハッピーエンドで良かった/主人公が頑張っている姿に感動したと思えると思うので、その点についてはオススメしたいと思う。
まぁ、ともあれ災害三部作から解放された新海誠が次に作る作品に期待したいですね。