「君たちはどう生きるか」感想 ネタバレ80%

こんにちは。

いやはや、宮﨑駿の最新作がついに公開されました。

私は、公開日最初の回を観に、立川のシネマシティに行きました。もう10年ぶりともなる宮﨑駿新作アニメともなれば、観ない理由が見当たりません。シネマシティにわざわざ来るような連中しかおりませんので、上映が終わったら拍手喝采スタンディングオベーション... のはずですが、私も含め「いったい何をみせられたのか」という気持ちでいっぱいで、拍手もまばら。この日は平日だったので次の回の予約はできず、一体何をみせられたのか、何を伝えたかったのか、そんなことをずっと考えながらの帰路でした。

 

二回目は翌日のこれもまた朝一に、バルト9のD列が空いている(Dolbyで足が伸ばせる)を見て、即効予約して見に行きました。

日にちを一日置いたのがよかったのか、二回目の鑑賞では宮﨑駿が何を言いたかったのか、何となく分かってきました。

そんな分かったことをとりあえずアウトプットしてみる。そんな感じの感想です。

 

作品の世界

青鷺は主人公にひたすらちょっかいを出し、主人公を石の世界へと案内する。これは映画「ゲド戦記」に自分の息子を連れ込んだ鈴木敏夫をイメージしているのではと邪推する。自分の息子に対する愛情なんて、駿は持っているかという疑問はあるが、この点を考えるとやはり自分の仕事をなんらかしらの形で継いでほしいというメッセージが込められているのだろうか。だったら直接本人に言ったらいいと思うのだが、そこが宮崎駿人間性につながる部分であると思った。

また、完全に宮崎駿の意思100%を継いでほしいとも思っていないようでもある。積み木を主人公に見せた時に、主人公が「それは木ではありません。墓に使われる石です。悪意があります。」と言ったように、自分が考えている意思や思想が絶対ではないと考えているのがわかる。すでに人間のことよりも、アトリエに飛んでくる鳥たちの方に愛着を増していっている(「もはや石の中はインコでいっぱいですからね」と青鷺が発言している)宮崎さんは、自分が進む道や作りだす作品はもはや墓石のごとく錆びたものであると考えている。だからと言って、完全に無かったことにしてほしくはないことは最後のシーンでわかる。

 

後半に主人公が連れて行かれる世界は、STONEの世界ではなく、意思の世界なのだということに気がつくことが必要だ。あの世界は、宮崎駿が作る作品の世界であると同時に、宮崎駿が影響を受けた作品の世界でもある。

世にあるさまざまな作品についてその全てを把握することはもはや必要ではなく、さらに言えばリスペクトして作品を作る必要もないと考えている。作品を鑑賞し、そのエッセンスの一要素でも持ち帰ってくれればそれでいい、自分は全世界の作品群の一つでしかないと考えている。

駿の懸念

ラストシーン、雲母から発生した謎のミミズに飲まれる大叔父様に対して久子はあまり執着せずに、時の回廊へと急ぎます。しかし、最初に大叔父様が積んでいた積み木が落ちるのをみて、「大叔父様、ありがとう」と名残惜しく涙を流します。

このシーンは実に唐突で、一貫性がないように思えます。世界が崩壊するような切羽詰まった状況で崩れ落ちるほど悲しいのであれば、最初の部分でもう少し取り乱してもいいように思えます。

ここに、宮﨑駿が伝えたいメッセージが別にあるのではないかと考えました。

僕も含め多くの人間は宮﨑駿の訃報を聞けば、宮﨑駿その人に哀悼の意を示すのではなく、生み出した作品を通じて間接的にしか思いを伝えない。例えば、「私の中で、となりのトトロもののけ姫といった作品はとても大きなものでした。宮﨑駿さんありがとうございました。」云々。こういった懸念を宮崎さんは感じているのではないでしょうか。

 

君たちはどう生きるかの答え

一通り映画を見終わると、山本有三,吉野源三郎作『君たちはどう生きるか』はあまり関係なく、もはや題名すらも関係ないように思えるが、宮崎駿君たちはどう生きるかに対する解と呼べるものを持ち合わせている。

この作品の「君たちはどう生きるか」とは、

「君たち(宮崎駿が作ったこれまでの映画)はどう活きるか」であると思う。だからこそ所々にジブリ作品のオマージュが含まれているのである。ジブリ作品を見て、私たちが受け取ったことが如何に自分たちの人生に活かされるのか。

私たちは試されている。

 

宮﨑駿は、今まで作った映画という資産を使って新しい映画を作る路線に切り替えて、これからも作品を作り続けてください。これからも応援しています。